しばらく前から、手掛けていた「下平尾下耕地の十九夜様の覚書」がようやく完成。
この3月で十九夜様の活動を止めにしました。
当地の石碑は十九夜塔ではなく「如意輪観音」塔です。この石碑の裏側には弘化四年とあります。十九夜様はそれ以前から歴史があるかもしれません。
地区には二つの講がありましたが、もうひとつはしばらく前に止めています。
時代に合わないと言えば、まことにそうかもしれません・・・・・が自分の代で終わりにしていいものかと。
私が頑張ったとしても、限界は目に見えています。
それで名前だけ残して、年一回食事会をしてご近所の皆さんと懇親を深めることにしました。
とは言っても、全体ではありません。
しばらく前に「佐久市誌」を読んでいて、「歴史」というものの大切さを知りました。
一度止めたものは、忘れ去られてしまうのですね。
私が十九夜様に初めて出席したのは、1981年と1982年の我が家がお当番だった時。
日記で確認しました。

何年かで回ってくるお当番は
ブログに書いていたので、多少なりともこれまでの経緯が解りました。
それらを書き出し、皆さんに聞いたり、残っている書類などから判断できたものをまとめました。
お道具箱から蝋燭立や鉦にお軸を出し、拭けるものは拭き虫干ししました。
お軸を包んでいた新聞紙の日付をみたら2015年、私がお当番をした時のままでした。
この時家に持ち帰り、義父にお軸を見てもらったのでした。
義父が男念仏の道具がいつの間に所在不明になっていると聞いていたので、もしやと思ったからです。
でもやっぱりこれは、十九夜様のものでした。その時義父が軸を書いた人が1枚は山岡鉄舟で、もう1枚は近在の住職さんではと。
いつも「如意輪観音像」の絵を掛けていたので、最近の皆さんはみたことが無いというでしょう。
大正11年に鉦を京都に注文して新調した書類が残っていました。道具箱の下から、叩きすぎて底が抜けた鉦が出てきました。
穴が開くほどの長い時間を思いました。
そして大正11年って、1922年なんですね。
この歴史を思うと胸が痛くなります。
男念仏はお道具の所在どころか知るもいなくなりました。
どんな形でも記録を残しておかねばと思ったのです。
残されている書類はわずかですが、それでもきちんと残しておけば後世の役に立つことがあるかもしれません。
お道具の写真も撮り、過去に皆さんが撮った写真も添付しました。
一式、区の公民館にお預けします。
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